震災から1年以上経過した気仙沼大島で変わったこと、変わらないこと。

19 Jun
2012

「おかえり。」
「ただいま。」

寂しい独身生活ではそんな会話ができること自体、とても稀で、だからこそ大島に帰ると自然と口をつくこの言葉のなんと幸せなことか。

再会

6月16日・17日と大島へ行ってきました。
現地での支援活動を終えて東京に戻ってからから実に8ヶ月ぶりの訪問。そんなに月日が経ってたなんて信じられないほどあっという間の時間で、それでも大島での濃密な日常を過ごしたからこそ、足を運べばすぐにあの頃の日々に戻れる。当たり前のように、昨日も会ってたかのように普通に接してくれるありがたみをたくさん実感してきました。

今回の最大の目的は、写真洗浄でお預かりした写真をお返しすることでした。その辺りの詳細や活動についてはフォとボラのブログで公開してます。

写真を依頼主にお返ししてきました。|フォとボラ

変わったこと

ビジュアル面で言えば、浦の浜の瓦礫の山がなくなっていたり、道路が復旧していたり、多くの建物が取り壊されていたり、お店が建っていたり、細かいことまで挙げるとかなり多くの変化がありました。印象としては、随分スッキリしちゃったなと。

ボランティアの受け入れ窓口がなくなった
災害対策本部やおばか隊の実質的な解散を受け、島外からのボランティアを受け入れる環境が大きく変わりました。
継続的に支援を続けている団体や個人以外、また突発的なイベントなどで募るボランティア以外には平時窓口が存在しないので活動の敷居がぐっと上がってしまった。個人的な繋がりを持たない人間が島にボランティアとして入ることが困難になっているのです。
人が来ることが何よりの復興への助けとなるのは当然の話で、観光産業が未だ正常に機能しない中、ボランティアの流入が減るというのは島の復興への大きなブレーキとなってしまう。

また、一部報道で諸問題が取り沙汰され全国にも広まった島内のごたごた。もちろんしっかりと追求されるべき問題ではあるし、島民の不満が蓄積された結果ではあるけれど、ここまで亀裂が生じてしまうと外から見てても非常にいたたまれない。
そもそも、大島にボランティアセンターは存在しなかった。ボランティアセンターとして活動していたのは私含め数人(交代制で常任1人)のコーディネーターだけだ。
民間の災害対策本部は実質上のボランティアセンターとして機能していたに過ぎず、本来社協が取りまとめるべきところを民間がやり、市役所の影響も弱かった。復旧当初は強いリーダーシップで行政に頼らず行動し、被災地の成功例となっていただけに、本当に残念なことです。個人的には、糾弾されている人たちが本当に頑張っていたところも見ているのでこの問題に関しては誰が悪いとかっていう話はしたくない。
根本的な解決はきっともう難しいのだろうけど、早く事態が収束することを願ってます。

それより何より、ボランティアに対しての旗振り役がいないのはキツい。どうすんの大島。
冷静に考えてボランティアの受け入れ窓口は不可欠なんだけど、新たに立ち上げるなら内部構成を刷新する必要がある。当時災害対策本部に関わっていた外部団体がそれをやったとしても島民が納得するのかどうか。じゃあそれ以外で、島の内情をある程度理解していて各所に顔が知れている人間って考えるとよくよく自分が適任なんじゃないかと思えてきて、色んな人に、伊藤くんがやってよって言われたのがチクチク心を刺激してくる。うーん。考えときます。

変わらないこと

言わずもがな人の温かさ。写真をお返しに行ったその場で気が付いたらお酒が出てきて、気が付いら夕飯が出てきて、気が付いたら一日中飲み明かして話が尽きなくて。
朝市に行けば大量のお土産をもらい、偶然再会できた人にはその場でお酒を買っていただき、島外でもお昼を一緒にとればご馳走になり、またお土産まで持たされ。もう何が何やら。

いつでも帰れる場所。「おかえり。」と迎えてくれる人。だから大好きなのもずっと変わらない。


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